政治家上村憲司 火焔型土器への思いと東京五輪

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ノンフィクションライターの八木澤高明氏(47)による大型連載第15回のテーマは、1年程度延期されることになった東京五輪の聖火台。前回大会時にもデザインとして請願されたという縄文時代の「火焔(かえん)型土器」を東京・渋谷の国学院大学博物館で見学した。5年ほど前から要望を続けてきた同大の小林達雄名誉教授(83)らに理由をきいた八木澤氏は、採用を提言した。

https://www.sanspo.com/sports/news/20200325/oly20032508000013-n1.html

新型コロナウイルスの影響で2020年に行われる予定だった開催が延期になった東京オリンピック。その聖火台がどんなデザインになっているのかは明らかにされておらず、どのようなデザインになるのか、注目が集まっています。この聖火台のデザインに関して火焔型土器(かえんがたどき)をデザインにした聖火台にしてほしいとお願いをしていた人物がいます。それが津南町の町長をしていた上村憲司さんです。火焔型土器をなぜオリンピックの聖火台にしてほしかったのか、そこには理由がありました。


火焔型土器は炎のような形をしていることから名づけられ、日本で初めて見る買ったのは新潟県長岡市でした。そして、津南町などでも多くの火焔型土器が見つかっており、2016年には日本遺産にも指定されたほどです。そして、津南町にある施設を秋篠宮家の方々が足をお運びになるなど、火焔型土器は注目を集めます。上村憲司さんが注目したのは、津南町には1万年以上前から人が暮らしていたという点です。現在も豪雪地帯として知られる津南町ですが、1万年以上前はさらに過酷な状況だったことが考えられます。温暖化により、雪がさほど降らない時期も出てきた中で、縄文時代はどんどん雪が降っていたことでしょう。このような豪雪地帯に、万全な防寒対策があったとは考えにくい時代から人が暮らしていたケースはほとんどなく、津南町周辺だけではないかと専門家が語るほどです。

しかも、当時1日ほど歩けば積雪が軽減され、普通に暮らせるところも様々ありました。にもかかわらず、津南町周辺に住んでいたのはなぜか。今でもその理由は定かになっていないようですが、人口密度はかなりあり、多くの人たちが暮らしていたことがたくさんの出土品からも証明されているそうです。

上村憲司さんが力を入れてきた火焔型土器について、聖火台のデザインに採用してもらおうと2015年から動き出していました。縄文文化は日本文化の源流であり、浮世絵や歌舞伎と並ぶ存在であるとアピールし、オリンピックで世界に広くアピールしたいと語っており、この時から働きかけが始まります。2017年にはオリンピック組織委員会を訪れ、上村憲司さんも参加しています。この時の肩書は津南町の町長だけでなく、信濃川火焔街道連携協議会の会長という肩書きもありました。これらの働きがマスコミにも取り上げられるようになり、土器の形が聖火台にピッタリであると評判を集めます。

こうした動きは上村憲司さんが2期8年で引退し、桑原悠町長へ引き継がれてからも続き、2018年には文部科学大臣のところにも足を運んでいます。いわば新潟県を挙げて請願を行い、その中心に津南町の町長がいる形が何年も続きました。津南町には「なじょもん」という、農業と縄文文化を体験できる実習施設が存在します。縄文時代の生活を体験でき、貴重な観光スポットにもなっています。この「なじょもん」に秋篠宮家の皆さんが足をお運びになり、津南町で夏休みを過ごしたことを各マスコミが伝えていました。上村憲司さんが熱を入れて取り組んできた活動は実を結ぼうとしています。

実際に火焔型土器がオリンピックの聖火台に採用される可能性はあまり高くないのではないかと言われています。実際に火焔型土器を聖火台に採用してほしいというような請願は、他にはあまり見られない一方、開会式のセレモニーと親和性のあるものが聖火台になるのがこれまでの傾向です。要するに火焔型土器を採用したら、それに関する開会式の演出を考えなければならないのです。この請願がどこまで評価されるかは定かではなく、地元の政治家が中央の政治家たちに陳情を行うような感覚で請願を行った可能性もあり、相手もそのように受け取っていることもあるでしょう。

しかし、火焔型土器のように独特な文化を遂げた土器の存在は多くの人に知ってもらうべきであり、上村憲司さんもそのことを考えて火焔型土器のアピールを行ってきたはずです。実際に火焔型土器と聞いても、日本史にかなり詳しい人でなければその存在を知る人は少なく、初めて目に下言葉だと思っている人も多いはずです。その知名度を一気に高めるためにも聖火台のデザインになれば、津南町やその周辺の自治体にとっても大きなアドバンテージになるでしょう。

上村憲司さんは最初から2期8年のつもりで登板し、任期をしっかりと勤め上げ、桑原悠町長にバトンを譲りました。その桑原町長も前の町長のやってきたことを引き継ぎ、地元のために奔走しています。桑原町長は東大の大学院時代に町会議員になっており、その時一緒に学んだ人たちは中央省庁で官僚を務めており、パイプは存在するなど、津南町の未来は桑原町長にかかっていると言っても過言ではありません。それを支えるのが上村憲司さんであり、津南町の町民としてその様子を見守ります。